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柏井 壽著「日本百名宿」

三福(京都)- 温かく迎えられる鴨川沿いの宿

片泊まり宿をもう一軒。こちらもまた、その在り処が素晴らしい。京都五花街のひとつ、先斗町にあって、かつ鴨川を望む地に建っている。その名を「三福」という。
しっとりとした情緒が持ち味だった先斗町も、近年はいささか騒がしさが先に立ち、おとなが歩く街から少しく遠くなっているのが寂しい限りである。名店の呼び声が高かった老舗割烹や茶店も、いつしか創作ダイニングやカフェヘとその姿を変えてしまっている。看板の色こそ抑えてはいるものの、およそ花街には似つかわしくない派手な文字遣いのものも多く、近頃では強引な客引きも横行し、そんな状況に地元では危機感をつのらせている。
車も通らぬ細い路地、先斗町を三条から下がってすぐ。東側に「三福」という控えめな看板が目に留まる。元はお茶屋だったというだけあって、艶やかな玄関の件まい。
入口横には「遊菴」という料理屋があり、宿の主人の娘婿が腕を振るう店だと聞いた。
お目当ての店がなければ、ここで夕食を摂ってもいいだろう。

玄関から宿に入る。大仰な出迎えなどはない。京の知人宅を訪れたと思えばいい。
姿が見えなければ声をかける。と、やわらかい京言葉で迎えてくれるはずだ。
部屋は五つ。一階と二階、通り側と奥に分かれる。一番のおすすめは二階の奥。鴨川を見下ろす部屋だ。

賀茂川も含めて、鴨川を間近に望む宿というのは存外少ない。かつては二条橋の畔に「ホテルフジタ京都」があったが、それも今や「ザ・リッツ・カールトン京都」へと生まれ変わった。
覗き見る程度の宿が何軒かあるくらいで、この「三福」のように、目の前に鴨川が流れている宿はほとんど見当たらない。それだけでも貴重な宿である。
ところで、片泊まり宿に過剰な幻想を抱くことは禁物である。たいていの片泊まり宿がそうであるように、この「三福」もお手洗いが共用だったり、宿の中の物音が響いたりする。あるいは夜の門限が十一時と、存外早かったりするし、真冬の暖房もホテル並みにとはいかない。そういう、ある種の不自由さをも愉しめる、余裕のある方にしか、片泊まり宿はおすすめできない。
鴨川を見下ろしながらのんびりと過ごし、夜はお目当ての店で夕食を摂ったら、早めに宿に戻り、また夜の鴨川を眺めて寝酒の一杯を愉しむ。
ぐっすりと眠った翌朝は、心のこもった朝ご飯をゆっくりと味わう。そんな過ごし方を望むなら、この「三福」を除いて他には泊まるべき宿はない。